今日吹く風は明日は吹かない
Freddie Mercury

僕は小学6年生(1978年)のころからFreddie Mercuryが好きだった。

Freddieが亡くなったのは1991年の11月。Freddieが亡くなった当時僕は大学院の1年生だった。HIV感染者であることの噂はあったが、当人はずっと否定していた。1991年1月に久々のアルバム”Innuendo”がリリースされ、死期が近いという説は嘘だったかと喜んで買ったが、ひとつひとつの曲の歌詞は彼がこれから死ぬことを想起させるものが多く、そのあまりにも美しく、あまりにも力強く、あまりにも残る者たちへの愛情に満ちた歌詞に涙した。そして、それから約8か月後、彼はHIV感染者であることを自ら宣言し、その翌日45歳という短い生涯の幕を閉じたのだ。

Queenは活動を休止したが、1992年4月にFreddieの追悼コンサートが行われた。その時の映像がこれだ(と思う)。このコンサートのGeorge Michaelが歌う部分のCDを当時手に入れたが、それ以外の部分は今日YouTubeで初めて聴いた。George Michaelは、おそらくFreddieの追悼のためか、自分流ではなくわざわざFreddie Mercuryっぽい歌い方で歌ってくれていて泣かせてくれる。このコンサートには、Annie LennoxがFreddieのパートをカバーしたDavid Bowieとのデュエットもあって思いっきりFreddieを思い出させてくれる。

http://www.youtube.com/watch?v=sTSbew8FA-k

夜中に見つけて、朝まで聴いてしまった。

イランのお正月

最近初めて知ったのだが、3/20はイランのお正月なのだそうだ。国連でも認められている世界ノウルーズデイという春の祭典にもなっていて、世界中で3億人以上の人達がお祝いする日なのだそうだ。

で、友人が経営しているペルシャンギャラリーでは、2013/3/24〜3/30の期間に帝国ホテルのスプリングフェアの特設会場で「ノウルーズフェア」をやっている。「ノウルーズフェア」というのは「春の祭典」という意味だそうだ。海外のお客さんや大使館関係者からも好評なようだが、なかなか一般の方に知って貰えず残念だとその友人は言っていた。

「ノウルーズフェアの招待状」

ペルシャンギャラリー「イランのお正月」

帝国ホテルでの開催というだけでちょっと身構えてしまうが、友人の話によるとどうやらとっても気軽に参加できる催しのようだ。イランの風習なんてこれまで身近に感じることがなかったが、そのイランも東日本大震災の時には親身に支援や応援をしてくれた。中東のこの国の文化に触れることができるせっかくの機会だし、ぜひ参加してみたいものだ。(でも、出張中で行けないかもしれない。。。)

★ノウルーズフェア(春の祭典)

日時:2013/3/24(日)~3/30(土) 11:00~19:00

場所:帝国ホテルプラザ3F 特別会場(エスカレーター前)

 ※地図は末尾

【参考】

ペルシャンギャラリー

ペルシャンギャラリー・帝国ホテルプラザ店

帝国ホテルプラザ・スプリングフェア

【地図】


大きな地図で見る

科学的な姿勢を育てるために

昼に空が青く見えたり朝夕に空が赤く見えるのが、大気を通過する光の散乱(レイリー散乱)によるものであることは、科学好きな小学生もたいてい知っている。なかなか良い説明をWebで見つけたので、URLを書いておこう。特に、ここで紹介されている偏光板を使った実験は小学生でもできる実験であり、理由は分からなくてもその不思議を経験することに大きな意味があるように思う。

http://www-antenna.ee.titech.ac.jp/~hira/hobby/edu/em/sky_polarization/index-j.html

ところで、科学の読物を読んで、本当にその説明を十分に納得できている子供は少ないと思う。それが正しいと納得できる実験を自分でやってみて初めて納得するならともかく、それらしく説明してある本を読んで分かったつもりになってしまうことは科学に対する正しい姿勢を損なうものだ。

僕は学生の頃、学習塾の教員のアルバイトをしていた。あの頃、「理科」で優秀な子供たちがさらに科学に興味を持つようにと思い、学校ではやらないような理科実験授業をよくやっていた。また、科学的な現象について少し突っ込んだ説明をしたりするように心がけていた。そして、何か説明すると「あ、先生!それ、知ってる、知ってる!」と目を輝かせて言う子供たちの姿勢に大きな戸惑いと危機感を感じていた。

当時、僕がやった理科実験は、多くの場合科学好きの子供たちには見たことも聞いたこともないようなもので比較的楽しかったと思う。例えば理科の教科書には「二酸化マンガンに、うすい過酸化水素水をそそぐと酸素が発生する」と書かれている。ほとんどの子供たちは、それを文字通りに何の疑問もなく従順に理解しており、どうして「《うすい》過酸化水素水」と書かれているのか考えもしていない。「《濃い》過酸化水素水だとどうなっちゃうのか」とか、「過酸化水素水とは違う物質ではだめなのか」など考えもしない。ここに科学に対する素養が育たない理由がある。濃い過酸化水素を二酸化マンガンに加えると、反応が激しすぎてフラスコから過酸化水素水が噴出して天井に届いてしまう。ただそれだけなのだが、教科書にも子供向けの科学の本にも「なぜ、《うすい》過酸化水素水」なのかは書かれていない。そして、子供たちはそれを読んで、読んだとおりに理解して分かったつもりになってしまう。

科学の本を読んだだけで分かったつもりになってしまったら、それは科学的な視点を失ってしまったことを意味する。大事なことは「ここに書かれていることは間違っているんじゃないか」という視点だ。そこに書かれていることが本当であることを自分なりの実験や思考を通じて検証しようとする姿勢こそが、科学や工学を志す者に必要な最低限の資質だと僕は思う。

《チエモク》
伊勢丹新宿店でやっている「大北海道展」に、2/9,10と2日にわたって足を運んだ。いわゆる物産展で、通常であれば海産物や農産物や乳製品あるいは有名なスイーツ類なんかが目当てなんだが、今回は違う。

「チエモク」だ。

「チエモク」は僕の高校の8年後輩であるチエ(千枝)ちゃんがやっている木工雑貨の工房&お店だ。自分の名前をもじったんだろうが、「知恵」もイメージさせる、シンプルで語感もよい素敵な名前だ。

いろいろな種類の携帯ストラップが人気で、中でも黒板消しのストラップがデザインのバリエーションも多く、大人気だと多くの友人から聞いていた。店で実際に目にすると、ミニチュアならではの見た目の可愛さだけでなく、35年も前の小学校の風景を彷彿とさせる20世紀少年的ノスタルジーもあり、僕も俄かに欲しくなって家族全員に一つずつ買ってしまった。

この工房の作品は見た目の可愛さだけが売りではないようだ。機能性や実用性も考慮して愛着が湧く、おそらく試行錯誤を重ねて作ったのであろう作品群もある。

例えば、木のスプーンやペーパーナイフは握った時の感触にとても惹かれるものであった。木の名刺ケースはスライド式の蓋が付いたものだが、磁石でピッタリ閉じるようになっていたり、蓋を開けると名刺がせり上がってくる仕掛けになっていたりと、機能的にも良く考えられている。

アクセサリーで目を引いたのは、白樺や桜の木でドングリやキノコを模った素朴で品の良いトップが付いたペンダント。金属チェーンのものと革チョーカーのものがあって胸元での揺れ方が違う。ワイフに似合いそうだと思ってドングリのペンダントをプレゼントしたら、予想をはるかに超えて喜んでくれた。

後輩だからということもあるが、こんな素敵な木工小物のお店があるので、興味があればネットショップを見てあげてほしい。

■チエモク
http://www.chiemoku.co.jp/

《チエモク》
伊勢丹新宿店でやっている「大北海道展」に、2/9,10と2日にわたって足を運んだ。いわゆる物産展で、通常であれば海産物や農産物や乳製品あるいは有名なスイーツ類なんかが目当てなんだが、今回は違う。

「チエモク」だ。

「チエモク」は僕の高校の8年後輩であるチエ(千枝)ちゃんがやっている木工雑貨の工房&お店だ。自分の名前をもじったんだろうが、「知恵」もイメージさせる、シンプルで語感もよい素敵な名前だ。

いろいろな種類の携帯ストラップが人気で、中でも黒板消しのストラップがデザインのバリエーションも多く、大人気だと多くの友人から聞いていた。店で実際に目にすると、ミニチュアならではの見た目の可愛さだけでなく、35年も前の小学校の風景を彷彿とさせる20世紀少年的ノスタルジーもあり、僕も俄かに欲しくなって家族全員に一つずつ買ってしまった。

この工房の作品は見た目の可愛さだけが売りではないようだ。機能性や実用性も考慮して愛着が湧く、おそらく試行錯誤を重ねて作ったのであろう作品群もある。

例えば、木のスプーンやペーパーナイフは握った時の感触にとても惹かれるものであった。木の名刺ケースはスライド式の蓋が付いたものだが、磁石でピッタリ閉じるようになっていたり、蓋を開けると名刺がせり上がってくる仕掛けになっていたりと、機能的にも良く考えられている。

アクセサリーで目を引いたのは、白樺や桜の木でドングリやキノコを模った素朴で品の良いトップが付いたペンダント。金属チェーンのものと革チョーカーのものがあって胸元での揺れ方が違う。ワイフに似合いそうだと思ってドングリのペンダントをプレゼントしたら、予想をはるかに超えて喜んでくれた。

後輩だからということもあるが、こんな素敵な木工小物のお店があるので、興味があればネットショップを見てあげてほしい。

■チエモク
http://www.chiemoku.co.jp/

人生初の10kmラン

今日、約47年の人生で初めて10km走った。僕は今日、そのことに猛烈に感激し、信じられないような達成感に浸っている。

今僕が感じているこの達成感は、10kmを何度も走ったことがある人には分からないかもしれない。10kmなんて普通に走る人が多いだろうし、そういう人、あるいはそういう人が近くにいる人にとっては、そんなに驚くことではないだろう。。

僕の友人には、サハラ砂漠やゴビ砂漠での250kmや北極マラソン・南極ウルトラマラソンに挑戦してきたOさんや、日本各地の100kmウルトラマラソンにチャレンジしているNさんのような人がいる。特にOさんのチャレンジは世界中の人に衝撃と感動を与えるレベルだ。それに対し、僕が達成したことは僕以外の人に驚きを与えることさえない。それでもなお、僕にとっては彼らが達成してきたスゴイ記録を目の当たりにした時よりも、自分の10km達成の方がはるかにビックリする出来事であり、そして感動しているのだ。

僕は子供の頃から長距離走が苦手だった。中学校や高校の体育の時も、たった3km走るだけでも苦しくて倒れそうになりながら先頭集団の倍以上の時間をかけてゴールしていた。長距離走がどうしてもダメだったが、それ以外のスポーツは全般的に得意な方だったから、「自分は長距離走に向いた身体じゃない」と30年以上も思い込んでいた。だから、ジョギングやマラソンが流行っていても、健康維持のため週に1回、約2km走るだけにとどめ、それでも辛い思いを乗り越えてやっているつもりだった。

そんな僕が真面目に長距離ランに取り組んでみようと思ったのは、2012年の秋に、前述のNさんやOさんに長距離を走るということがどういことなのか、多くの話しを聞いたからだ。とはいえ、彼らの達成した記録を聞いただけなら、ますます長距離走にチャレンジしようという気になどならなかっただろう。

彼らは二人とも、僕と同じように数年前までは長距離走とは縁遠いメタボなおじさんだった(う~ん、これご本人が読んじゃったら気分を害するかな。でも修正することなく、失礼な表現をお詫びします〜。)彼らからの共通するアドバイスは、チャレンジする精神力に関するものではない。それは、きっと長距離ランナーには当たり前なのかもしれないが、「走れるペースで走れ。そうすれば走れる。」ということだった。

つまり、僕が長距離走がダメだったのは、目標の距離を走れるペースよりも早いペースで走っているからだと言うのだ。僕はその話を最初から真に受けることはできなかった。それは「できる人」の言うことで、僕のような「できない人」にはできないのだと。しかし、聞いているうちに本当にそうかもしれないと思うようになってきたのだ。

そしてある日、いつもの2kmランよりもかなり遅いペース(6’10”/km)で走ってみた。すると、同じ程度の辛さで5km走ることができた。僕は彼らのアドバイスを信じることにした。

それから5kmを週に3回のペースで走ることにした。すると、走った日の次の日は毎回ひどい筋肉痛に苛まれることになった。これに対して、「鉄の女」と呼ばれるAさんから「そのペースなら、2週間で筋肉痛にならなくなる」というアドバイスを受けた。僕にはランナーたちのアドバイスを信じる心構えが既にできていたので、素直に信じて走り続けた。そして、そのアドバイスは見事にその通りだった。きっと彼女にも経験があるのだ。

それから、約2ヶ月。ずっと約5kmを週2~3日のペースで走り続けてきたのだ。そして、ふと気がつくと、最近は5km走ってもあとに疲労感が残らないことくらいになっていた。

そして、いつものように「今日」がやってきた。

前日5つの飲み会をはしごしたせいか、目覚めた時、二日酔いというほどではないが飲み疲れが残っていた。しかし、目覚めた瞬間、「距離を伸ばすのは今日だ」という気持ちがモヤモヤと心のなかに存在していた。徐々に頭が働くようになってくると、それは既に決意になっていた。そして、「今日走る距離は7km」と決めた。常識的に考えて、まだまだ素人ランナーなのに距離を急に2倍にするのは無謀だろう。先週膝が痛かったし、無理はしないほうがいいだろう。漠然とそんなことを考えていた。

朝ごはんも食べずに、飲み疲れをとるために風呂に浸かり、すぐに走りに出た。最近いつもそうであるように、走ってみると体が軽い。そして、7kmまであと少しという時になって、突然「もっとイケる!」という気持ちになってきた。「これなら10km走れる」という思いに急に取り憑かれたのだ。

疲れもない。息も上がっていない。膝の痛みもない。ここでやめる理由がどこにある?先週まで「夢の目標」のような気がしていた10km。「このままのペースで走り続ければ近い将来10km走ることができる気がする」と人に話したのはつい先週のことだ。それがこんなに早くに達成できそうなのだ。

正直に言うと、「10kmを達成したい」ということよりも、「仲間たちに『10km走ったよ』って伝えて、『やったね!頑張ったね』って言ってもらいたい」という気持ちが強かった。10kmという自分の中での内的な目標を達成したい気持ちももちろんあったが、それだけであれば今日は7kmでやめただろうと思う。

10kmって、ランニングする人にとっては大した距離じゃないかもしれない。でも、ランニングの目標って、他の人に比べてすごいかどうかじゃない。僕の仲間たちは、ちょっと前までの僕が、走ることについてどれだけダメで、どれだけ頑張ってきたか知っている。みんな、僕が10km走ったことを知ったら、きっとすごく喜んでくれるだろうし、すごく驚いてくれるだろうし、すごく褒めてくれるだろう。

僕は、まるで小さな子が母親に「ママ!ボク、口笛できるよ!ほら、聴いて!」って目を輝かせて言うのと同じように、Facebookや飲み会で「ボク10km走れたよ!今までのボクを考えれば、すごいでしょ!」って言って褒めてもらいたいのだ。

10kmも走ることができる自分は、2kmでハァハァ言っていた以前の自分よりも素敵だ。でも、応援してくれる仲間がいなかったら、僕はランニングをやろうとさえしなかっただろうし、まして目標を上げようとしたりしなかっただろう。

僕は「応援」という行為に大きな価値を感じている。僕みたいに感じる人は他にもたくさんいるだろう。だから、大袈裟かもしれないが、応援の精神こそ社会を豊かにする原動力だと思う。

「10kmを達成したい」という気持ちだけでホントに達成するには強い精神力が必要で、それができることはとても素晴らしいことだ。でも、「皆が褒めてくれるに違いない」との思いで頑張ることは決して恥ずかしいことじゃないし、多くの人が励まし合って、それで一人一人がより大きな成果を出せるのであれば、それってすごくいい社会だと僕は思う。

だからこそ、僕は自分が誰かを応援するだけじゃなく、多くの人を巻き込んでいろんな応援活動をしていきたいと思うのだ。

ハーブ&ドロシー・・・観て欲しい

2008年公開の映画「ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人」アート好きの方は必見。感動すると思います。お勧めです。多くの方に観ていただきたくて、仲間たちと企画しました。続編は3月公開ですが、まずは前作を御覧ください。

札幌プラザ2・5にて、1月3日新春無料上映会開催!まだ、席に余裕あります。

映画についてはここ

http://www.herbanddorothy.com/jp/

1月3日札幌プラザ2・5での無料上映会についてはここ

https://sites.google.com/site/hd50x50fund/show_sapporo_01

新聞などでも取り上げられました。

https://sites.google.com/site/hd50x50fund/home/zui-xin-qing-bao

ハーブ&ドロシーの監督、めぐみさんへの共感
2008年公開の「ハーブ&ドロシー」のDVDを観た。僕自身の感想はブログを読んでほしい。
http://htadano.tumblr.com/post/37899194606/herb-and-dorothy-01

本当に、深い感銘を受けた。

近いうちに別途報告させてもらうが、ニューヨークにいる監督の佐々木芽生さんにSkypeビデオ通話で70分も時間を頂いてインタビューさせてもらうことができた。(しかも、初対面のご本人にインタビュー前にお許しを頂き、「めぐみさん」と呼ばせてもらっちゃった。ここでも、「めぐみさん」と書かせてもらっちゃう。)

そして、そのインタビューを通じて新たな感銘を受けることになった。それは、主人公のアートに対する熱意にも負けない、めぐみさんの二つの熱い想い。

一つは、「ハーブとドロシーの生き方をもっと広く伝えたい」という想い。

ヴォーゲル夫妻がアメリカの国立美術館、ナショナル・ギャラリーに2千点を越える作品を寄贈したのが1992年。めぐみさんがナショナル・ギャラリーで初めて夫妻のコレクションに出会ったのが2002年。夫妻に出会って映画製作に思い至ったのが2004年。

既にアートの世界で名声を得てから10年以上も経っているのに、何故「夫妻のことをもっと知ってほしい」と映画作りを始めたのか?

それまでの報道は表面的なものばかりで、ヴォーゲル夫妻の真の姿、二人の情熱を伝えるようなものは無かったからだそうだ。つまり、有名になったといっても、「低所得で風変わりでなコレクターが若手アーティストの作品を買い集め、そのアーティストがたまたま有名になったから世界的なコレクションになった」というような評判だったのだそうだ。めぐみさんは、「これは、単にアートコレクターのサクセスストーリーではなく、人が幸せに生きるってどういうことかっていう生き方のお話」と語ってくれた。


もう一つ、めぐみさんが意欲を燃やすのは、日本でクラウド・ファンディング(ネットなどを介して低額の出資金を幅広く多数の個人賛同者から集める資金調達方法)による映画製作や配給のための資金調達を成功させることだ。

米国ではクラウド・ファンディングが定着しつつあるそうだ。しかし、日本では個人で資金協力する文化が醸成されていないことやネット上でお金を払うことに対する抵抗感などから、なかなか資金が集まらないのが現状だ。国内のクラウド・ファンディングの仕組み自体も貧弱だ。

日本の映画界では、比較的有名な監督でさえも資金供出してくれるスポンサー探しに苦労するし、ある程度スポンサーの意向にそう必要も生じる。まして、若手の監督にとっては自分の作りたい映画を作ることはあまりにもハードルが高い。映画の完成までたどり着いたとしても、小規模な上映会をやる程度で終わってしまうケースが多いのだそうだ。全国に配給して多くの人に見てもらうとなるとさらに資金が必要になる。


多くの個人に呼びかけて賛同してくれる人から資金協力を得ることができるようになれば、日本の映画作りは変わるに違いない。

めぐみさんが意欲を燃やすのは、日本国内のクラウド・ファンディングで1000万円集めること。実現すれば、日本では史上類を見ない規模のクラウド・ファンディングによる資金調達額になる。そして、映画製作の世界では、エポックメイキングなできごとになることだろう。

僕も、僅かながら10,000円の資金協力をさせてもらった。これは、いろんな特典の対価として払うのではない。めぐみさんの想いの実現に協力したいという気持ちもある。でも、それ以上に、日本の映画製作に新時代をもたらす活動に自分も貢献したいという気持ちから、資金拠出させてもらった。

でも、自分にはもっと貢献できることがあるのではないだろうか?もっとやれるはずだ。



【参考】
・「モーション・ギャラリー」の「ハーブ&ドロシー50X50」資金協力ページ
  http://motion-gallery.net/projects/herbanddorothy5050
・ハーブ&ドロシー50x50公式サイト
  http://www.herbanddorothy.com/jp/

ハーブ&ドロシーの監督、めぐみさんへの共感

2008年公開の「ハーブ&ドロシー」のDVDを観た。僕自身の感想はブログを読んでほしい。

http://htadano.tumblr.com/post/37899194606/herb-and-dorothy-01

本当に、深い感銘を受けた。

近いうちに別途報告させてもらうが、ニューヨークにいる監督の佐々木芽生さんにSkypeビデオ通話で70分も時間を頂いてインタビューさせてもらうことができた。(しかも、初対面のご本人にインタビュー前にお許しを頂き、「めぐみさん」と呼ばせてもらっちゃった。ここでも、「めぐみさん」と書かせてもらっちゃう。)

そして、そのインタビューを通じて新たな感銘を受けることになった。それは、主人公のアートに対する熱意にも負けない、めぐみさんの二つの熱い想い。

一つは、「ハーブとドロシーの生き方をもっと広く伝えたい」という想い。

ヴォーゲル夫妻がアメリカの国立美術館、ナショナル・ギャラリーに2千点を越える作品を寄贈したのが1992年。めぐみさんがナショナル・ギャラリーで初めて夫妻のコレクションに出会ったのが2002年。夫妻に出会って映画製作に思い至ったのが2004年。

既にアートの世界で名声を得てから10年以上も経っているのに、何故「夫妻のことをもっと知ってほしい」と映画作りを始めたのか?

それまでの報道は表面的なものばかりで、ヴォーゲル夫妻の真の姿、二人の情熱を伝えるようなものは無かったからだそうだ。つまり、有名になったといっても、「低所得で風変わりでなコレクターが若手アーティストの作品を買い集め、そのアーティストがたまたま有名になったから世界的なコレクションになった」というような評判だったのだそうだ。めぐみさんは、「これは、単にアートコレクターのサクセスストーリーではなく、人が幸せに生きるってどういうことかっていう生き方のお話」と語ってくれた。

もう一つ、めぐみさんが意欲を燃やすのは、日本でクラウド・ファンディング(ネットなどを介して低額の出資金を幅広く多数の個人賛同者から集める資金調達方法)による映画製作や配給のための資金調達を成功させることだ。

米国ではクラウド・ファンディングが定着しつつあるそうだ。しかし、日本では個人で資金協力する文化が醸成されていないことやネット上でお金を払うことに対する抵抗感などから、なかなか資金が集まらないのが現状だ。国内のクラウド・ファンディングの仕組み自体も貧弱だ。

日本の映画界では、比較的有名な監督でさえも資金供出してくれるスポンサー探しに苦労するし、ある程度スポンサーの意向にそう必要も生じる。まして、若手の監督にとっては自分の作りたい映画を作ることはあまりにもハードルが高い。映画の完成までたどり着いたとしても、小規模な上映会をやる程度で終わってしまうケースが多いのだそうだ。全国に配給して多くの人に見てもらうとなるとさらに資金が必要になる。

多くの個人に呼びかけて賛同してくれる人から資金協力を得ることができるようになれば、日本の映画作りは変わるに違いない。

めぐみさんが意欲を燃やすのは、日本国内のクラウド・ファンディングで1000万円集めること。実現すれば、日本では史上類を見ない規模のクラウド・ファンディングによる資金調達額になる。そして、映画製作の世界では、エポックメイキングなできごとになることだろう。

僕も、僅かながら10,000円の資金協力をさせてもらった。これは、いろんな特典の対価として払うのではない。めぐみさんの想いの実現に協力したいという気持ちもある。でも、それ以上に、日本の映画製作に新時代をもたらす活動に自分も貢献したいという気持ちから、資金拠出させてもらった。

でも、自分にはもっと貢献できることがあるのではないだろうか?もっとやれるはずだ。

【参考】

・「モーション・ギャラリー」の「ハーブ&ドロシー50X50」資金協力ページ

  http://motion-gallery.net/projects/herbanddorothy5050

・ハーブ&ドロシー50x50公式サイト

  http://www.herbanddorothy.com/jp/

2008年に公開された『ハーブ&ドロシー(Herb & Dorothy)』という映画のDVDを観た。

もともと、監督兼プロデューサーである佐々木芽生さんが高校の先輩だと友人から聞いて少し興味を持っていたのが、Amazon.comでDVDを購入して観てみようと思ったきっかけだ。

この映画は、ハーブとドロシーという米国に住む夫婦の「貧乏なアートコレクター」の生き方を描いたドキュメンタリー作品だ。僕は、ドキュメンタリー映画が嫌いなわけじゃないが、これまで観ようと思ったことがなかった。

しかし、DVDが届いた日、87分のこの映画を結局6時間も掛けて観ることになった。1回目は全編通して、2度めは何度も巻き戻しながら。

まず、最初にこのハーブ(本名はハーバートだろうか)とドロシーの、二人のアートに対する熱意と自分の感覚だけを信じて信念を貫きとおす生き方にとても強く惹かれる。

二人は、アートに関わろうが関わるまいが、全般的に謙虚で善良で、質素で慎ましい。アートに対しても、強い熱意と信念を持ちながら、決してわがままを押し通すわけでも、無茶をするわけでもない。慎ましい生活の中で、小さな借金はしてもそれ以上の背伸びもしない。無名のアーティストの作品。誰も見向きもしないけど、ただ自分が素晴らしいと感じる作品を買い集めるだけだ。

芸術を愛しているからこそ、作品を売ったりもしない。だからいつまで経っても、線路のように貧乏は続く。

一つだけ、明らかに能力的に人並み外れていることは、「美を見抜く力」だ。とくにハーブは、世に数多くいる美術商/画商のようなアートの見方をしない。その眼はいつもアーティストそのものを見つめている。目をつけたアーティストの全ての作品、作りかけのものも、途中でやめたものも、全てを見つめようとする。そして、何かそのアーティストの感性の奥底に流れる血の色でも吟味するかのように、覗きこむようにアート作品を見つめるのだ。

「審美眼を持った貧乏人」

映画の中に登場する誰かさんが、この2人のことをこのように評価する。ピッタリな形容かもしれない。

そんな、凄まじい能力を持ちながら、ただアートを愛して慎ましく暮らしていけばそれで幸せだという生き方そのものに僕は「美学」を感じる。美学を感じるから、彼らの生き方が美しいと感じる。

でも、特別な能力を持っていたからこの二人が幸せになったわけではないことは明白だ。彼らは、たまたまそういう能力にも恵まれて有名になったけれども、そうでなくてもただ自分が美しいと感じるアート作品に囲まれて幸せに暮らしたことだろう。有名になったことは、彼らにとっては成功でもなんでもないのだ。

次に感じることは、この二人の互いを尊重しながら助け合う温かい関係だ。アート作品の見方も違う。作品の購入に意欲的なのはどちらかと言えばハーブだが、ドロシーはその後のお金のことを考えて、きっと最善の判断をするのだ。借金をして買ってもコツコツと返していけるのはドロシーがきちんとお金を管理しているからだろう。でも、ずっと後になってから世の中が認めるような美を早くから見つけ出すのはハーブだ。この二人はうまい具合に互いを補い合って、融け合って、一つの方向を一緒に向いて生きていく夫婦だ。

そんな二人の人生観に強いあこがれを抱くのは僕だけではないだろう。2008年に日本で公開した時、25週のロングランだったそうだ。


《参考》
・ハーブ&ドロシーWebサイト
  http://www.herbanddorothy.com/jp/



※後記
この映画の監督兼プロデューサーである佐々木芽生さんに70分ほどインタビューする機会を得ることができた。そして、第二の感銘を受けることになった。そのうち、その内容もブログに書くことにしよう。

2008年に公開された『ハーブ&ドロシー(Herb & Dorothy)』という映画のDVDを観た。

もともと、監督兼プロデューサーである佐々木芽生さんが高校の先輩だと友人から聞いて少し興味を持っていたのが、Amazon.comでDVDを購入して観てみようと思ったきっかけだ。

この映画は、ハーブとドロシーという米国に住む夫婦の「貧乏なアートコレクター」の生き方を描いたドキュメンタリー作品だ。僕は、ドキュメンタリー映画が嫌いなわけじゃないが、これまで観ようと思ったことがなかった。

しかし、DVDが届いた日、87分のこの映画を結局6時間も掛けて観ることになった。1回目は全編通して、2度めは何度も巻き戻しながら。

まず、最初にこのハーブ(本名はハーバートだろうか)とドロシーの、二人のアートに対する熱意と自分の感覚だけを信じて信念を貫きとおす生き方にとても強く惹かれる。

二人は、アートに関わろうが関わるまいが、全般的に謙虚で善良で、質素で慎ましい。アートに対しても、強い熱意と信念を持ちながら、決してわがままを押し通すわけでも、無茶をするわけでもない。慎ましい生活の中で、小さな借金はしてもそれ以上の背伸びもしない。無名のアーティストの作品。誰も見向きもしないけど、ただ自分が素晴らしいと感じる作品を買い集めるだけだ。

芸術を愛しているからこそ、作品を売ったりもしない。だからいつまで経っても、線路のように貧乏は続く。

一つだけ、明らかに能力的に人並み外れていることは、「美を見抜く力」だ。とくにハーブは、世に数多くいる美術商/画商のようなアートの見方をしない。その眼はいつもアーティストそのものを見つめている。目をつけたアーティストの全ての作品、作りかけのものも、途中でやめたものも、全てを見つめようとする。そして、何かそのアーティストの感性の奥底に流れる血の色でも吟味するかのように、覗きこむようにアート作品を見つめるのだ。

「審美眼を持った貧乏人」

映画の中に登場する誰かさんが、この2人のことをこのように評価する。ピッタリな形容かもしれない。

そんな、凄まじい能力を持ちながら、ただアートを愛して慎ましく暮らしていけばそれで幸せだという生き方そのものに僕は「美学」を感じる。美学を感じるから、彼らの生き方が美しいと感じる。

でも、特別な能力を持っていたからこの二人が幸せになったわけではないことは明白だ。彼らは、たまたまそういう能力にも恵まれて有名になったけれども、そうでなくてもただ自分が美しいと感じるアート作品に囲まれて幸せに暮らしたことだろう。有名になったことは、彼らにとっては成功でもなんでもないのだ。

次に感じることは、この二人の互いを尊重しながら助け合う温かい関係だ。アート作品の見方も違う。作品の購入に意欲的なのはどちらかと言えばハーブだが、ドロシーはその後のお金のことを考えて、きっと最善の判断をするのだ。借金をして買ってもコツコツと返していけるのはドロシーがきちんとお金を管理しているからだろう。でも、ずっと後になってから世の中が認めるような美を早くから見つけ出すのはハーブだ。この二人はうまい具合に互いを補い合って、融け合って、一つの方向を一緒に向いて生きていく夫婦だ。

そんな二人の人生観に強いあこがれを抱くのは僕だけではないだろう。2008年に日本で公開した時、25週のロングランだったそうだ。

《参考》

・ハーブ&ドロシーWebサイト

  http://www.herbanddorothy.com/jp/

※後記

この映画の監督兼プロデューサーである佐々木芽生さんに70分ほどインタビューする機会を得ることができた。そして、第二の感銘を受けることになった。そのうち、その内容もブログに書くことにしよう。

《北アルプス常念岳の四季》
仕事で安曇野に訪れるようになったのは2008年からだ。その間、1年くらいブランクがあったものの、今も毎週のように松本・安曇野エリアに出張に行く。

そこには雄大な北アルプスの風景が広がっている。毎日のように北アルプスを眺めていると、その日によって、また時間帯によって山の見え方に変化がある。

 色鮮やかで輪郭もくっきりとしてとても近くに見えたり、

 とても遠くにおぼろげに見えたり、

 厳かに佇んでいるように見えたり、

 元気に見えたり、

 悲しんでいるように見えたり、

 胸を張っているように見えたり、

 寂しげに見えたり、

 怒っているように見えたり、

 寒々として見えたり、

 爽やかに見えたり、

 雲に覆われたり、

 雲を見下ろしたり。

特に、松本・安曇野周辺から北アルプスを眺めると、中でも常念岳の高さと形の美しさに目を奪われる。

僕は安曇野に足を運ぶようになってから、この常念岳を目にする度に写真をずっと取り続けてきた。そして、いつの日か常念岳の四季の変化をパラパラ漫画にしたいと思い続けてきた。

 雪が消え、

 緑が増え、

 真っ青な空に輝き、

 赤く色づき、

 雪を被り、

 雪に覆われる。

その姿は、何年見続けても、全く飽きることがない。

松本で見る常念岳と安曇野で見る常念岳では形が違う。大糸線でもっと北上すると、全く違う形に見える。

山は、人と同じように、いろいろな表情を見せてくれる。

(2012.12.9 H.Tadano)

《トンボは学習するか》

トンボがバックでやってきて、おもむろにこの植物の葉の先に止まる。しかし、思いの外、葉が柔らかくて止まりごこちが悪い。トンボは一度この葉から離れ、ホバーリングしながらバックして止まり直そうとする。しかし、止まろうと思ったらまたさっきの居心地の悪い葉だ。「ここじゃない!」もう一度バックし直して、今度はうまく茎に止まることができた。

このトンボは、ちゃんと経験を踏まえて学習し、自分の目で見た情報を元に、「ここはダメだ」と判断しているのだ。このように、トンボにも、学習能力、判断力があることが分かり、とても驚いた。

2012.9.29  安曇野・池田町クラフトパークにて撮影(この動画は、高速撮影してスローモーション再生できるように記録したものです。)

僕は、魚を食べるとき、骨に軟骨も身も全く残らないように綺麗に食べるのが好きだ。骨が折れたり割れたりしないように。逆に複数の骨格で構造を形成している部分は一つ一つ丁寧に外し、その骨を結合している軟骨や皮は綺麗に食べる。骨格の構造だけでなく、骨の形状、どこに身があるか、どういう方向から骨を外せば綺麗に外れるか、などを理解していないと綺麗に食べるのは難しい。
特に頭の部分は楽しい。頭部を構成する骨格は、基本形状は魚の種類によらず共通している。しかし、ここの骨格の形状は魚の種類によってそれぞれ特徴があり、それも楽しさの一つだ。マグロ専門店などで「かぶと焼き」(頭部の丸焼き)を頼むには最低でも10人くらい必要だが、実際にマグロの頭が解体されずにまるごと出てくると、どうやって食べれば良いのか誰も分からないことが多い(高級店ではちゃンと目の前で解体して取り分けてくれるが)。そういう時、いつも僕が解体役になる。最初は単なるとりわけ役として解体し始めるのだが、いつもみんながどうやって解体するのかを興味深く見ているので、空気を察して解説しながら解体することになる。
鯛も比較的楽しい魚だ。エラの内側にある「鯛の鯛」と呼ばれる骨もとても愛らしい。これは、魚の肩甲骨と鳥口骨で、これだけは結合部分が外れないようにする。「鯛の鯛」は魚によって形状も違い、これだけでも楽しめる。
魚全体が綺麗に骨だけになると、ちょっと嬉しい。

僕は、魚を食べるとき、骨に軟骨も身も全く残らないように綺麗に食べるのが好きだ。骨が折れたり割れたりしないように。逆に複数の骨格で構造を形成している部分は一つ一つ丁寧に外し、その骨を結合している軟骨や皮は綺麗に食べる。骨格の構造だけでなく、骨の形状、どこに身があるか、どういう方向から骨を外せば綺麗に外れるか、などを理解していないと綺麗に食べるのは難しい。

特に頭の部分は楽しい。頭部を構成する骨格は、基本形状は魚の種類によらず共通している。しかし、ここの骨格の形状は魚の種類によってそれぞれ特徴があり、それも楽しさの一つだ。マグロ専門店などで「かぶと焼き」(頭部の丸焼き)を頼むには最低でも10人くらい必要だが、実際にマグロの頭が解体されずにまるごと出てくると、どうやって食べれば良いのか誰も分からないことが多い(高級店ではちゃンと目の前で解体して取り分けてくれるが)。そういう時、いつも僕が解体役になる。最初は単なるとりわけ役として解体し始めるのだが、いつもみんながどうやって解体するのかを興味深く見ているので、空気を察して解説しながら解体することになる。

鯛も比較的楽しい魚だ。エラの内側にある「鯛の鯛」と呼ばれる骨もとても愛らしい。これは、魚の肩甲骨と鳥口骨で、これだけは結合部分が外れないようにする。「鯛の鯛」は魚によって形状も違い、これだけでも楽しめる。

魚全体が綺麗に骨だけになると、ちょっと嬉しい。

《食べそびれ》
午後の用事に間に合わせるためにはこの店を12:20には出ないといけないのだが、店に入ったのは12:00。

店の接客を切り盛りしているお婆ちゃんに20分後には店を出ないといけないことを告げると、大丈夫だと言う。一抹の不安を感じながら、先に出てきたビールを飲み、TVニュースを見ながら出てくるのを待つ。3分あれば食べられる。そう思いながら睨む時計の針は無情に進む。

5分前にまだですかと尋ねると、順番だからと言う。3分前にまた聞いてみると、急いでいると言う。もう全部食べるのは無理だ。途中で残して会計する時にお婆ちゃんになんて言おうかなどと考えていると、気づいたらもう12:21だった。僕はすぐに席を立った。

「あ、あの…ごめんなさい…。僕もう出ないといけないんです………。すみませんが、お勘定をお願いします。」
「え?もうすぐ出るよ!」
「ごめんなさい。もう出る時間なんです。
「……じゃ500円で」

料理の分も払うと言いかけたら、遮られた。時間もないので、ビール代だけ払って店を出た。

これが最近のシステム化&マニュアル化された店であれば、躊躇なく店員の対応の悪さを指摘しただろう。しかし、相手は老夫婦がやっている蕎麦屋だ。腹が立つ気持ちと同時に申し訳ないという気持ちも湧いてくる。

僕はビールだけ流し込んだペコペコのお腹を抱え、少し迷惑そうな顔をしたお婆ちゃんにペコっと頭を下げて、そそくさと店を出た。

店の名は「尾張屋」…

《食べそびれ》
午後の用事に間に合わせるためにはこの店を12:20には出ないといけないのだが、店に入ったのは12:00。

店の接客を切り盛りしているお婆ちゃんに20分後には店を出ないといけないことを告げると、大丈夫だと言う。一抹の不安を感じながら、先に出てきたビールを飲み、TVニュースを見ながら出てくるのを待つ。3分あれば食べられる。そう思いながら睨む時計の針は無情に進む。

5分前にまだですかと尋ねると、順番だからと言う。3分前にまた聞いてみると、急いでいると言う。もう全部食べるのは無理だ。途中で残して会計する時にお婆ちゃんになんて言おうかなどと考えていると、気づいたらもう12:21だった。僕はすぐに席を立った。

「あ、あの…ごめんなさい…。僕もう出ないといけないんです………。すみませんが、お勘定をお願いします。」
「え?もうすぐ出るよ!」
「ごめんなさい。もう出る時間なんです。
「……じゃ500円で」

料理の分も払うと言いかけたら、遮られた。時間もないので、ビール代だけ払って店を出た。

これが最近のシステム化&マニュアル化された店であれば、躊躇なく店員の対応の悪さを指摘しただろう。しかし、相手は老夫婦がやっている蕎麦屋だ。腹が立つ気持ちと同時に申し訳ないという気持ちも湧いてくる。

僕はビールだけ流し込んだペコペコのお腹を抱え、少し迷惑そうな顔をしたお婆ちゃんにペコっと頭を下げて、そそくさと店を出た。

店の名は「尾張屋」…

ちょっと前に話題になりましたが、かつて小学校や駅前など子どもの通るところに設置されていた二宮金次郎像は撤去が相次いでいるそうです。歩きながら本を読むのは危険であり、行政や学校がそれを推奨するかのような像を設置するのは好ましくないという配慮からだそうです。責任論を世の中の仕組みの根底に据えてしまうとこういうことが起きてしまうんですね。寂しい限りです。もしホントにそれが問題なら、子供がよく通る場所に設置されたこんな像は絶対ダメですね。

http://www.flickr.com/photos/58453106@N08/7942441060

ところで、実際に二宮金次郎の像がどの程度撤去されたのか統計情報は見当たりません。僕がよく通りかかる長野県安曇野市の某駅の前には未だに設置されています。「本を読みながら歩くと、気づかずに花壇に踏み込んじゃうよ!」と教えてくれているかのようです。

http://www.flickr.com/photos/htadano/7942312368/in/photostream/

ちなみに、多くの都市では自転車での走行中に携帯やスマホを見ていると、5万円程度の罰金が課されるという条例があります。自転車でなくても、歩きながらモバイルデバイスの画面を見ていると、とても危ないです。皆さん、読書だけでなく、何かを見ながら歩くのは危険です。注意しましょう。


◆参考
「歩いて読むのは危険」という意見で「二宮金次郎像」撤去相次ぐhttp://amaebi.net/lite/archives/1888673.html

ちょっと前に話題になりましたが、かつて小学校や駅前など子どもの通るところに設置されていた二宮金次郎像は撤去が相次いでいるそうです。歩きながら本を読むのは危険であり、行政や学校がそれを推奨するかのような像を設置するのは好ましくないという配慮からだそうです。責任論を世の中の仕組みの根底に据えてしまうとこういうことが起きてしまうんですね。寂しい限りです。もしホントにそれが問題なら、子供がよく通る場所に設置されたこんな像は絶対ダメですね。

http://www.flickr.com/photos/58453106@N08/7942441060

ところで、実際に二宮金次郎の像がどの程度撤去されたのか統計情報は見当たりません。僕がよく通りかかる長野県安曇野市の某駅の前には未だに設置されています。「本を読みながら歩くと、気づかずに花壇に踏み込んじゃうよ!」と教えてくれているかのようです。

http://www.flickr.com/photos/htadano/7942312368/in/photostream/

ちなみに、多くの都市では自転車での走行中に携帯やスマホを見ていると、5万円程度の罰金が課されるという条例があります。自転車でなくても、歩きながらモバイルデバイスの画面を見ていると、とても危ないです。皆さん、読書だけでなく、何かを見ながら歩くのは危険です。注意しましょう。


◆参考
「歩いて読むのは危険」という意見で「二宮金次郎像」撤去相次ぐ
http://amaebi.net/lite/archives/1888673.html

《遺失物》

意に反して長文になってしまった。貴重な時間を無駄にしたくない方は読まないことを強くお勧めする。

■■はじめに■■

僕が子供の頃住んでいた家はキッチン以外は畳の部屋だけで、普段居間では畳の上に直接、あるいは座布団を敷いて正座して座っていた。だから当時は正座で足が痺れるなんてことはなかった。しかし、大学進学で東京に出てからは正座どころか床に座る機会などなく、たまに正座する機会があると15分も経たずに足が痺れて立てなくなってしまう。

明日は用事があって早く寝たいから、正座でもして足がしびれる前にこれを書き上げるとしよう。

■■遺失■■

さて、ここからが本題。

確か、今から約2年前(夏だった)、僕は大糸線(松本から日本海側の糸魚川までを繋ぐローカル路線)のある駅で東京に帰るための特急あずさの指定席を予約した。そして、いつもの様に大糸線で松本に向かったのだが、松本で電車を降りる瞬間に出張用の旅行カバンがないことに気づいた。指定席を予約するときに下にカバンを置いて、指定券を受け取った後そのままカバンを置き忘れてしまったのだ。その時乗ってきた大糸線が、東京方面の最終の特急あずさに間に合う最後の電車だったから、取りに戻ったらホテルにもう一泊しないといけなくなる。

「駅に連絡すれば、受払いで送ってくれるだろう」

僕はそのまま帰ることに決め、松本駅でJ○東日本お客様センター(遺失物問合せ先)に電話した。

■■絶句■■

電話口でJ○東日本お客様センターの女性にひと通り忘れ物の概要と置き忘れた場所を説明すると、その女性はこう言う。

「今、データベースを調べましたが、そのような忘れ物は届いておりません。」

「30分前にそこに置き忘れたばかりですので、多分駅員さんもまだ気づいていないんだと思うんですが。」

「では、明日にはデータベースに登録されると思いますので、明日また電話して下さい。」

「でも、貴重なものも入っていますし、このまま駅に放置されているのは嫌なので、駅に連絡してもらえませんか?」

「駅には連絡できません。お客様センターから駅への電話連絡はできないルールになっております。駅への連絡は駅事務所からしかできないことになっておりまして、その駅に連絡をとりたいのであればお近くのJ○の駅事務所で事情を説明して連絡をとってもらってください」

特急あずさの出発まであと1分。松本駅の駅事務所に行く時間はない。

「今、丁度、松本駅で特急あずさが出発するところでして、松本駅の駅事務所に行く余裕はありません。このまま新宿まで行くのですが、2時間半以上もカバンをあの駅に放置したくないんです。」

しゃべっている途中で特急あずさのドアが閉まって動き出した。僕の声は途中から特急あずさの走行音にかき消され、言いたいことを最後まで伝えるのに10分くらい要したと思う。松本を出るとすぐトンネルがあって電話が繋がらず、ますます時間がかかる。そして、とうとうそれ以上要求しても埒が明かないと判断することにした。

「こちらからは駅への連絡はできませんので、電車を降りた駅で忘れ物をした駅に連絡してもらって下さい。」

要するに、それ以上のことはいくら要求してもやってくれないのだ。

■■懸念■■

幸いにして仕事で使っているPCは忘れてきた旅行カバンではなく手に持っているビジネスバッグに入っている。旅行カバンに入っているのは主に衣類だが、デジカメや特急あずさの回数券や・・・それから財布が入っている。あのまま3時間以上も駅の券売機の前に置きっぱなしなのは嫌だ。とは言え、デジカメや回数券や財布など金目のモノが入っているが、周囲の目もあるし駅の券売機の前に置きっぱなしのカバンを誰かが持ち去るなんて状況的に難しいだろう。見つからなかったら・・・・なんてことは、万が一そうなってから考えても遅くない。

問題は財布だ。盗まれることは考えないとしても、持っているチケットは東京都内までであって、川崎の自宅の最寄り駅までは行けない。ということは、自宅でタクシー代を用意してもらって、都内のもっとも家に近い駅からタクシーで帰るしかない。それより、カバンが届くまで財布なしで大丈夫か?カバンが家に届くのが、来週の出張の出発日に間に合わなかったらどうしよう。カバンは別なカバンを使えばいいとしても、財布に入っているものや忘れたカバンに入っているものを持たずに出張に出て大丈夫か?

ビールを飲みつつそんなことを考えながら、いつしか特急あずさの中で寝てしまい、目が覚めるともうすぐ新宿だった。

■■駅間通信■■

22時40分過ぎに新宿駅で特急あずさを降り、駅員に尋ねて何番線かのホームにある遺失物を取り扱う小さな事務所に向かった。そこで、事情を説明するとすぐに忘れ物をした駅に連絡をとってくれた。

「駅間通信で連絡を取りますから、ちょっと待ってて下さい。」

「えきかんつうしん」って言うのか。恐らくNTTの公衆回線ではなくJ○内の専用線なんだろうなどと思う間もなく、J○新宿駅の遺失物担当のオジサンは、連絡がとれてカバンが見つかったことを身振りで教えてくれた。カバンはまだ駅に届けられていず、券売機の前に置かれたままだったという。オジサンは、とても手際よく本人確認と受け払いの宅配便の手続きを進めてくれ、ニコニコして「良かったですね」と言ってくれた。

僕は心からこのオジサンに感謝しつつ、J○お客様センターのお嬢さんの対応を思い出していた。彼女が悪いわけじゃない。J○の規模を考えると仕方が無い要素もある。しかし、もう少しどうにかならないのかね・・・。

松本から帰ってきたのは金曜日の夜だ。カバンは日曜日に自宅に届いた。結局、特急あずさの中で様々なケースを想定して対応を検討したのは杞憂に終わった。だからと言って、考えたことが無駄だったわけではない。リスクマネジメントはいつだって大事だ。

それから3ヶ月くらい経った後、僕はまた同じ駅で、今度はホームに同じ旅行カバンを置き忘れて帰ってきてしまった。J○東日本の遺失物取り扱いポリシーが改善されたかどうかを確認するため、J○お客様センターに同じように電話をしたが、対応は同じだった。しかし、今度は落ち着いて新宿で同じ手続をした。

■■おわりに■■

20分でこれを書き上げるのは全く無理だった。今、僕の足は完全に痺れ切って、立ち上がろうとすることすらできない(椅子の上で正座していた)。ま、10分も待てば立ち上がれるだろう。

ちなみに、2度目に旅行カバンを忘れた時はさすがに反省し、その後は毎週金曜日の朝、松本のホテルのチェックアウト時に旅行カバンを宅配便で自宅に送ることにした。安価に回避できるリスクは回避した方がいい。なお、今はホテル暮らしではなくマンスリーアパートを借りているので、旅行カバンは持ち歩いていない。

◇◇参考◇◇

1.J○東日本お問い合せセンターおよび「お忘れ物についてのお問い合わせ先」

http://www.jreast.co.jp/info/contact.html

母と娘

ある土曜日の午前、電車の中で目の前のシートに座っている同世代の女性が反対側のシートに座る誰かに合図を送っている。僕が邪魔かもしれないと思って少しよけてあげるときにチラッと見ると、合図の相手は中学生くらいのお嬢さんだ。

娘が合図に気づかず、母親はイライラしてくる。床をドンと足で踏み鳴らしてみたり、大きなゼスチャーで手を振ってみたりし始めた。周囲も眉をしかめ始める。やっとのことで娘が気づくと、足を閉じなさいという意味の大袈裟な身振りと鋭い睨みつけ光線。

お母さん、娘さんよりあなたの方が何倍もみっともなくて、しかも迷惑だよ…。